洛タイ投書箱



挽歌 今道元市長へ
2015年 7月 13日


◆…燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや 一人の英傑が産まれるには(本人の資質が大切だが)周りの理解と協力が必要となる。
◆…私が今道を懐旧するとき、昭和50年4月の府議3選目に拘わるのは、これこそが彼にとっての「分水嶺」だったからである。勝てば少壮政治家として大きく羽ばたけるが、頓挫すれば只の人。且つ、宇・城・久という今道には不利な選挙区制での戦い。政党公認の強豪ひしめく激戦となったからだ。
◆…4議席を7人で争ったが結果は、共産、民主、今道、公明の順で当選。ざっくり言えば千票刻み、1万5千票から1万2千票、次点以下も千票で続く(政党名は当時)。
◆…徒手空拳の今道が3位に入ったのは奇跡に近いと思えるがそれなりの理由(わけ)もある。彼を育(はぐく)み、支え、世に出そうと努力を惜しまなかった人達の存在だ。
◆…厳しい選挙を目前にして、西村義一氏が逝去した。旧寺田村の村長から、昭和26年5月、久津川・寺田・富野荘・青谷の4村が合併して城陽町が誕生したとき、初代町長に当選している。寡黙だが信念の人、城陽の発展に尽力した。後、農協組合長としても地域に貢献している。現在の市庁舎を建てた人で当時、「無用の長物」といわれたが、先見の明、今では手狭。半世紀を超えて使用に耐えている。
◆…西村氏は今道の縁威にして後盾(うしろだて)。寺田三縁寺での葬儀では彼が委員長を務めた。この時の挨拶は、名演説の一つとして人口に膾炙(かいしゃ)した。弔問の私に「困ったことになった…」、「ここでそんな話するな、何とかなる…」。やりとりの末、西村氏の霊前に誓った。この選挙、犬馬の労を執ります。必ず勝たせますと…。何とか勝って安堵した。
◆…府議3期目、難解の選挙で私がMVPに推すのは池垣義正氏。すべてのわだかまりを捨てて、今道陣営に参加してくれた。寺田では「最後の旦那」といわれた人。立居振舞(たちいふるまい)の一つひとつが絵になった。当然、人びとの畏敬の的、「あの人も応援してはる」、それだけでムードが変る。投開票の前夜遅く、氏は「終ったなあ」とつぶやいた。私は「大将(最上級の尊敬語)、まだ済んでない。明日もあります」と…。怪訝(けげん)な顔の氏に、選挙事務所の前に腰かけて、道行く人に黙って頭を下げてくれと頼んだ。所は有権者が一番多い福祉会館のすぐ西の府道沿い。注文通り、頭を下げてくれた池垣氏。人々が心変りしないようにとの私の願い。心の中で手を合わせていた。
◆…想いは尽きない。岩ア久雄君の献身的な貢献は、仏法でいう「不惜身命」の体現か。病を得ても尚、今道を気にする中川和次さん、何一つ不足もいわず黙々と経理を担当した南村和久さん。慈愛に満ちた眼(まなざし)で見守り続けた池田政之助元府議と後援会長の北村喜久治氏。今道軍団の婦人部隊は「仙勝会」。軽いフットワークと爆発力は圧倒的だった。HさんとYちゃんの活躍が目を引いた。
◆…沢山の人に見守られて育ち、大きくなった今道の生涯は幸せだった。政治家は私利私欲に走ってはいかんといえば「俺は未だ井戸端やな」と本気で悩む今道、雅号・仙穂(せんすい)と称して一句ひねった今道、雲仙普賢岳で苦斗したヒゲの鐘ヶ江市長との交流を自慢する今道、四斗俵(60`)を両手に下げて下駄ばきで庭を歩いた今道、俺が月下氷人(げっかひょうじん・なこうど)したカップルは一組も破鏡していないといばる今道、そのどれもが今道仙次そのものだ。
◆…この人間臭さこそ、彼が慕われ、愛され、尊敬された最大の要因ではなかったろうか。
(城陽市寺田・藤村眞澄)

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