洛タイ投書箱



挽歌 今道元市長へ
2015年 6月 25日


◆…誰がいい初(そ)めたか、定かではない。昭和50年代初頭、巷間、「城陽谷間論」なる警句がささやかれていた。
◆…南山城における城陽の立ち位置が、近隣市町の発展の影に埋没するのではという危機感が強まったからだ。
◆…なる程、宇治は別格、平等院はお札になる。お茶は日本一、歴史では宇治川の先陣など誇るべき事物は枚挙に暇がない。久御山は企業誘致が功を奏して、広大な工業団地を作り上げた。京田辺、精華、木津等は京阪奈学研都市の息吹きに沸き立ち、ひとり城陽がその狭間に取り残されるという懸念だ。今道も機会あるごとにその危惧を訴えつづけた。残念なことだが今日(こんにち)の城陽が、当時の惨状を投影していると感じるのは、果して私の杞憂だろうか。
◆…閑話休題。乱脈を極めた島市政の末期に、場違いの人が現われた。民間出身の大物、西山正英氏だ。旧知の島市長(当時)に請われて助役となった。愚直と思われるほど生真面目な人。就任直後に起きた汚職事件の処理に彼は奔走した。彼の思想信条は、島氏のそれとは相容れないことは明白、それでも与えられた職務を忠実にこなした。決して報われることのない毎日を。
◆…西山家は地元でも十指に入る名門。声望もある。セクト色の強い寺田の旧村パワーが、これを放っておく訳がない。富野に市長を取られることに切歯していた矢先、「西山市長」の実現を期待したのも無理はない。
◆…しかし、そうはならなかった。誤解を恐れずにいえば、西山氏の逡巡が事態を変えた。「今道伝説」では出馬を固めたとあるが、実は何もしていない。長袖(京の都のお公卿さん。転じて名家の出自)のひ弱さか、日和見を決め込んだ。
◆…汚職発覚後、早い時期に「話しが違う、私は後始末に来た心算はない」と辞表を叩きつけたとしたら、城陽の歴史は大きく変わっていただろう。今道もそんな展開を期待していた節もある。市長選直前の8月30日の辞任は如何にも遅きに失した。
◆…ただ、西山氏には社会経験も力量もある。即、昭和54年4月の府議選に出馬、当選。以後6期24年間、府議として大きな足跡を残された。特筆すべきは何といっても京都きづ川病院。かねて昵懇(じっこん)の間柄だった中野進理事長と呼応して、その設立に尽力した。大病院のなかった城陽に私立ながら全科揃った医療施設はまさに干天の慈雨。市長となっていた今道も強力にバックアップ、“市民立病院”と称してその設立を歓迎した。
◆…きづ川病院は地域医療の中核として、必要欠くべからざる施設、今も城陽市の救急搬送は半数超、1746人(平成26年実数)に上る。市民にとっても、今道を語る上でも、極めて枢要の出来事だったと思う。
◆…その後、市長選の方は紆余曲折を経て最後、衰微の城陽を再生するべく託されたのは、やはり今道仙次その人であった。
(城陽市寺田・藤村眞澄)

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